5歳のときだった。3歳上の兄が習っているヴァイオリン教室(鈴木教室)へ、母が兄弟を一緒に連れて行った。大阪の阪神淀川駅から、1時間半ほどかかるところである。電車好きの僕は、遠足気分でお供した。兄は、4歳からそこまで母と通っていた。兄の練習が終わり、先生が『ぼく(かわいいやっちゃん)もやってみるか?』というので、はじめてヴァイオリンを手にした。兄は、もうメヌエットなどえらい曲をすでに弾いていた。どのように持つかは、兄を見ていたので知っていた。僕が、得意げにあごの下にヴァイオリンを挟み、左手でネックをつかむと、そこを持つなという。ヴァイオリンのボデイーを持てと。兄とは違うポーズ。弦を触らず、ただ右手で、ボウをぎーこぎーことやるだけ。
5分足らずで、やーーーーめたっ。母の、僕への情操教育は、一瞬にして消滅。
幼稚園入園後、園内でオルガン教室があるというので、入らされた。家には、足踏みのオルガンが、すでにあった。それでもいやいや2年がんばった。好きな須藤さんもいたし。眉が濃く、鼻筋の通った人気園児。発表会もやり、母は大喜び。卒園後、ピアノ教室へ進むように先生から薦められたが、僕がイヤというので、これまた母のもくろみ通りには行かず。(いまは、大後悔してます!ピアノを弾ける人に、今は、尊敬のまなざしで見るのですよ。)
小学校2年生の時、住まいを大阪市内から兵庫県川西市に移し、僕たち兄弟は、大阪府豊中市の上野小学校へ越境電車通学させられた。上野小学校前のバス停の二つ前は、東豊中高校前で、寺村会長が通っていたはず。バスの中で一緒になっていたかもね。そのひとつ前が、梅花学園前でね、きれいなおねーさんが、たくさんバスに乗ってたね。うんうん。こんなこと書いてる場合ではない。兄は5年生で、合唱部へ入団。入団は高学年から。僕の成績が良くないので、即塾に放り込まれる。帰宅は夜9時ごろ。ただ、ぼくは、体育、音楽、図画工作と家庭科の成績は、常に5(Aのこと)。頭を使わない科目はもってこい。4年生になって、合唱部のオーデションに合格。朝7時半の練習は、朝6時に家を出ないといけない。その時『4年4組の歌』を、作曲。残念なことに、今はその曲を覚えていない。5年連続大阪府下の小学校の部で優勝。6年生のとき、宝塚の大劇場でアマチュアトップコンサートに、合唱部が出演。卒業の謝恩会で、6年2組は、タイガースの『君だけに』(題名が、ちょっと思い出せない)を、歌う。
¯オープリーズーーーーー¯という出だしを、僕がソロ。
ただ小学の時に兄と一緒に歌えなかったのが、とても残念だ。
中学校は、二年生から越境が厳しくなり、川西市内の中学校へ転校。合唱部はあったが、入る気はしなかった。声変わりもあったし。母が運動部に入れというので、バレーボール部に入部。母に、フルートを吹きたいから買ってと尋ねると、成績がオール5(すべてA)になったら買って上げるわよと含みのある返事。リベンジが始まっていたのか?
無理なこと言われた。そして即、あきらめる。この辺が、やっちゃんらしい。
高校に入り、大学の進路と将来の希望を決めないといけない。建築家になりたかった。2年生で美術系大学に進路修正。本来美術の授業をとらないといけないけれど、なぜか3年間、音楽を取っていた。合唱部はあったが、男子が一人しかいなく、まったく興味なし。ただ、好きな伊都子さんがいた。ピアノも弾けた。かわいかったなーーーいつも髪を結っていたね、いっちゃん!
秋の文化祭で、グループを組み、サイモンとガーファンクルの歌を歌う。
その間兄は、中学校でブラスバンド部に入り、トランペットとドラムをやっていた。家の中は、プープーバチバチとうるさかった。とにかくバチで所かまわずたたきまわす。
兄は、高校、大学と関学のグリーに入り、歌のみで、かろうじて卒業。ヨーロッパ遠征で一ヶ月の、旅行。旅費は、親が出した。今でも覚えてる。
定演は、良く見に行った。関学が初めて、ミュージカル『ヘアー』を、振りを入れて合唱。大阪のフェステバルホールでの公演。兄が振り付けを担当したと聞く。格好よかったーーーー。兄は学生指揮をしたかったようだが、ベースのパートリーダー止り。涙。
中学校、高校では、結局僕は歌わなかった。もっぱら兄のコンサートに行ったり、兄が掛けるレコードを、よく聴いていた。
僕は、浪人1年した。第一希望は、金沢市立美術工芸大学。親のたっしは、国公立なら県外はよし。私立は、家から通えるところのみ。だから私立は、兄の通つていた関学のみを受験しお見事に、受験した全学部、不―合―格!!!。完敗!引っかかりもしない。グリーを断念。勉強は、毛頭するつもりはなかったけど。でも努力の甲斐あり金沢美大と京都教育大学特修美術学科に合格。勇んで金沢へ移る。
入学式に来た母が、『うちは財産がないから、教育だけが子供にしてあげられること』『学生時代の友は、一生の友』よと、金沢駅で僕にそう言って、雷鳥号に乗って大阪へ帰っていったことを、今でも覚えている。いい母だ。
ちなみに、兄は、幼稚園、高校と大学は、私立校。僕は、ずっと公立校。むむむ何か差別があるのかと考える次男なのだ。三男のひとは、もっとひどいものなのか?
東京芸大、京都芸大、と金沢美大は、三美大という。現在は、愛知芸大が加わり四美大となっている。ただ金沢美大には音楽科は、ない。だから合唱部という雰囲気はみじんもない。ただ軽音とうるさいロックのみ。でも彼らは、うまかったね。とにかく汚かったけど。『たなちん』の襲名は、入学後すぐに決定。
テレビで北陸放送(MRO)の合唱団の入団募集があり応募した。オーデションには、10数名の男女が来ていた。緊張。唱歌を、ピアノの前で一人ずつ歌う。テナー希望のある人は、まるで軍歌のように歌って笑いを誘っていた。最初の練習日、その人も来ていたっけ。毎年の定演に加え、年末は『第九』、モーツアルトの『レクイエム』を歌うのが金沢の恒例行事。ぼくは、『第九』のみ歌った。
『第九』は、朝比奈隆、山田一雄の指揮で歌う。
朝比奈さんは、貫禄があった。おおらかでやさしく指揮をしてた。山田さんは、指揮棒が、下から上に振り上げるというか、かき上げる感じで、慣れなかった。体か、上下に動く感じでした。うなりながら振ってましたね。小柄だけど、パワー抜群。
1976年、金沢市とNY州のバッファロー市が、姉妹都市で、アメリカの建国200年記念のジョイントコンサートが、バッファローで企画された。合唱団と琴演奏団が金沢から飛行機をチャーターして行き、現地のオーケストラとジョイントする。僕は、学生の身でお金がなく、断るしかなかったが、団長さんが、旅費の30万円を、貸してやるから、一緒に行こうと誘ってくれた。借金というのは、したくないが、この話は、お言葉に甘えた。ベートーベンのハ調の『レクイエム』を歌う。アメリカの道路の立体交差と橋のデザインに大感激。アメリカでいつか働きたいと、思った。借金返済で、ダム現場と白山の室堂で、夏はぼっかのアルバイト。日本の大自然も堪能。教わった子はかわいそうだが、家庭教師なるものもした。僕は、自力でアメリカ遠征をした。
これが、長男と次男の違いだ。
札幌交響楽団とベートーベンの『荘厳ミサ』を、岩城宏之の指揮で札幌まで進出。素人合唱団では、不可能といわれている曲。ゲネプロでは、大フーガが始まる
『魔の三百六小節』から何度やってもまったく合わず、岩城が怒ってタクトを、客席に放り出すハプニング。こわーーーー。マジにシーーーーンとなる。
本番は、ばっちし!岩城が胸にOKのサインを指で出す。皆が、顔をぐちゃぐちゃにして、泣いていた。僕は、歌いながら泣いていた。というか、泣きながら歌った。クレイドがとにかく良かった。オーケストラと歌うと、全身が麻酔にかかったようで、雰囲気に酔ってしまう。「毒」された感じ。第九とは比べ物にならない感動。民放の合唱団なので、各種地元の番組に出演。ひとつはドリフターズの『全員集合』の聖歌隊。白いベレー帽かぶって、ゲスト歌手と一緒に歌う場面。始めてギャラをいただく。5000円だった。生番組の、迫力と戦争のようなひしめき合いを、体験。とにかく秒単位で、すべてが動いていた。コーヒーのネスカフェが主催したポップコンサートは、石丸寛の指揮。
大学を卒業する年、美大からは6名が第九に参加した。合唱好きの学生も、探せばいたのだ。風変わりなのか?もともと美大生は、風変わりなのだが。
就職。オイルショックの後期。何とか松下の住宅事業部のナショナル住宅に就職。
僕の専門の工業デザインは、車や家電のデザインが主。どうも個体より空間内のもののデザインに、魅力があった。あだなは『たなやん』となる。酒飲み丸出し。たるーい、頼りない感じで、いや。
新しい寮ができ、その寮歌を作曲また寮旗をデザインする。寮の文化委員になる。
秋の寮祭で、独断で加山雄三の『アルプスの若大将』を上映。その頃から、歌は、カラオケばっかり。やはり雄三の曲や千春、さだまさしなどをよく歌った。あちこちのバーにボトルをキープ。いつでも歌える体制作り。この辺は、棚やんらしい。大阪府の合唱コンクールに松下の合唱団員として参加。やはり住友銀行が優勝。熱の入れようがとにかく違った。きっと、あいつらは暇なんやと、負け口をたたく。
パナホームの展示場のデザインで、全国を走り回った。一年後輩に、いまコーラルアーツで歌っているKさんが、入社し同じデザイン室配属。今、加山雄三のコンサートで
一緒に練習中。「信じられへんなーーーー」が、お互いの合い言葉。
大企業は、どうも?で退職を決意。1983年の暮れ、大阪城公園で『第一回
1万人の第九』があり、参加。オーケストラの音、モニターで見る指揮、声の反響で、歌いづらいというか歌えない、が感想。まあ、退社記念に。半年の休職なら会社は、OKというが、それは甘い!この辺も、棚やんらしいが、あの上司とは、仕事をしたくなかったが、本音。その甘い誘いを振り切って一年の予定で1984年6月に渡米。
目的は、家具のデザイン。それ以来、LAにしか住んでいない。一年が一生、、、、という人が、割と多い。僕も、その可能性大。今の仕事が、すぐに見つかり、1989年2月永住権取得。主に屏風絵と壁画を制作。アメリカで日本画を描くなど、夢にも思っていなかった。でも、アメリカ人の方が、日本のことを、良く知ってる。恥ずかしい話。
1996年、師匠が日本語で『わが失られし日本』を出版。その編集に加わる。この本が、きっかけで、加藤登紀子さんと親しくなる。語りかける歌い方が、いい。飾りけのない小柄で、エネルギーの塊のような女性。資本は、体力を感じた。
1997年から、羅府新報に寄稿するようになる。
1999年の、羅府新報のグリーの記事を、ファイルしていた。いつか入れないか?いつかまた合唱できないか?トーレンスは、でも遠いね。異国感があり、入部を渋る。
2004年秋、父の一周忌で帰国。単身赴任で岡山にいる兄と、カラオケで加山雄三の『旅人よ』をはじめて二人で歌う。兄は、ベースだが、上のFまでは、軽く声が出る。北村協一以外の指揮では、歌いたくないという。分かるような気がする。
兄弟、歌、音楽好きだが、両親はまったくの音痴。父は、電気技師、母は、フランス刺繍の教師で、音楽畑ではない。小さい頃、母は三味線を習っていたが、お師匠さんから、もう来なくていいといわれ、愕然として帰宅したとか。それから音楽嫌いになる。兄は、バイオリン、トランペット、オルガンと楽器を買い与えられた。
僕はなし。またまた、いじける次男。でも僕は、13歳の時から、SLの写真を撮りに、日本を旅させてもらった。家には、おもちゃがなく、あったのは、Oゲージの鉄道模型だけだった。時刻表が、愛読書。
そして、2005年春。S Fでの、アラウンドシンガーズのコンサートを見に、初めてS Fへ飛ぶ。久々にグリーを聴き、涙。合唱の魅力に捕らわれる。北村先生と再会。
歌のある生活。やっぱりいい。(趣味の範囲なら)捨てられない。
6月上旬、LA Men’s Glee Club の定期演奏会の数行の小さな案内を、羅府新報で、演奏会の前日に、見る。何かの縁を感じた。S Fでの、感激がまだ体の中にくすぶっていた。土曜の仕事を早めに終えて、トーレンスへ向かう。受付で、反省会の酒代に使われるとも知らず、20ドルの寄付をする。入れすぎたか?最後列の中央通路側に席を取る。まさかそこで、とし(高橋さん)と十数年ぶりに、齋藤さんとは三年ぶりに会うとは。これは信じられなかった。三人で話をしてる間に、入団決心。二日後、6月6日(月)、LA Men’s Glee Club の練習に初参加。セカンドに一応配属。欲求不満にならないように注意と、畑中先生のマネージャーから忠告を受ける。8月、二世週合唱祭に参加。久々のステージ。じわーっと、目頭があつくなった。あの「毒」は、確かに切れることなく、僕の体内のどこかに残っていた。
自称、『不良中年』の、LA Men’s Glee Club。 反省会に費やす時間が、練習時間よりちょっと長いようだが、何はともあれ、皆で歌って笑って飲んで語り合うのが好きな、個性豊かな、また社会経験豊富なハンサム男の軍団である。
一緒に勉強させてください、という姿勢でがんばります。
お互いに、とことん『毒』されましょう。よろ